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July 0572015

 チングルマ一岳霧に現れず

                           友岡子郷

に一度、チングルマを見られる人は幸せです。高山植物の代表格であるチングルマは、本州なら3000m級、北海道なら2000m級の山に、夏の短い期間にしか咲かない花です。登山者は、年に一度の逢瀬のために重荷を背負って山を登ります。なぜ、山に登るのか。そこに山があるから。いや、むしろ、チングルマに会いに行くためです。掲句の登山者は、高度を上げて登ってきて、ようやくチングルマの見える地点に到達しました。チングルマは、森林限界よりも高い標高の稜線や、尾根のお花畑に自生して います。頂上もテント場も間近です。しかし、霧に隠れて「あの山」が見えない。岳人の心には、造形美への希求があって、思い描いてきた山稜の形態が霧に隠れているとき、白い霧に拒絶されながらも、眼前のチングルマには、いとおしい視線を注ぎます。夏、チングルマは裏切らない。遠景の無情と、近景の有情。私事ですが、釧路の高校の三年間、山岳部員として毎夏、五泊六日で十勝岳、トムラウシを経て大雪山旭岳まで縦走していました。25kgのキスリングは肩に食い込み、毎日十数kmの行程をのっしり脚を踏ん張って登り下りました。大雪山の雪渓を削って粉末ジュースをふりかけると、かき氷ができます。そこを越えるとチングルマの群生が迎えてくれました。旭岳は間近で、白い花弁の黄色い小さな花 が咲いています。『風日』(1994)所収。(小笠原高志)


July 1272015

 旅びとに夕かげながし初蛍

                           角川春樹

に出て何日経つだろうか。今日も日が暮れてゆく。旅に出ると、だんだんおのが身がむき出しになってきて、背負ってきた過去の時間は、夕影に長く伸びている。しかし、夕闇が深くなり始めて、この夏初めて見る蛍は光を発光してうつろっている。私にはうつろって見えるけれど、実際は、まっすぐに求愛している。けれども、人がそうであるように、蛍の恋も迷いさまようのではないだろうか。「源氏名の微熱をもちし恋蛍」。拙者のことをやけに艶っぽく詠んでくれました。源氏名とは洒落てい ます。われわれと同様に、人間界の恋も、微熱をともなうらしいですね。医学的には、風邪の症状と恋している症状は同等なので、将来的には恋する注射も開発可能と聞いたことがあります。ならば、失恋の鎮痛薬も出来そうですが、閑話休題。「夕蛍真砂女の恋の行方かな」。消えるとわかっていても光ろうとする。できないからやろうとする。かなわないから、さらに発光する。しかし、現実には、「手に触れて屍臭(ししゅう)に似たる蛍かな」ということも。人は、蛍の光に恋情を見ますが、作者は、その生臭い実態を隠しません。掲句に戻ります。中七まで多用されているひらがなが流れつく先に、初蛍が光っています。旅人と夕影と初蛍の光の情景から、音楽が生まれてもおかしくない気がします。引用句も含めて『存在と時間』(1997)所収。(小笠原高志)


July 1972015

 毒死列島身悶えしつつ野辺の花

                           石牟礼道子

月12日の夜は、大分で地震がありました。今月に入って、根室で震度3、盛岡で震度5弱、栃木でも震度4など、列島は揺れています。これに加えて、口永良部島の噴火や、箱根、浅間山、昨年は木曽の御嶽山の惨事がありました。霧島では、火山性地震が急増している一方で、同じ鹿児島県の川内原発1号機では、原子炉に核燃料を搬入する作業が完了しました。他の誰でもない石牟礼道子氏が「毒死列島」という言葉を句にするとき、それは誇張ではない実質を伝えます。「身悶え」という言葉も同様に、日本人の営みは、この土地とじかにつながっていて、この土地の身内として自身の営みを続けてきた実感を伝えています。以下、句集の解説から、上野千鶴子氏との対話を抜粋します。「3.11のときに何を感じられたのですか。」「あとが大変だ、水俣のようになっていくに違いないって、すぐそう思いました。」「水俣と同じことが福島でも起こる、と。」「起こるでしょう。また棄てるのかと思いました。この国は塵芥のように人間を棄てる。役に立たなくなった人たちもまだ役に立つ人たちも、棄てることを最初から勘定に入れている。役に立たない人っていないですよね。ものは言えなくても、手がかなわなくても、そこにいるだけで人には意味がある。なのに『棄却』なんて言葉で、棄てるんです。」「人間がやることは、この先もあんまりよくなる可能性はないですか。」「あまりない。いや、いいこともあります。人間にも草にも花が咲く。徒花(あだばな)もありますけど。小さな雑草の花でもいいんです。花が咲く。花を咲かせて、自然に返って、次の世代に花の香りを残して。」『石牟礼道子全句集 泣きなが原』(2015)所収。(小笠原高志)


July 2672015

 汗ぬぐふ捕手のマスクの汗見ずや

                           水原秋桜子

瞬の動作です。捕手は、半袖のユニフォームの袖口で、額の汗をぬぐいます。しかし、キャッチャーマスクにべとついている汗を拭くことはせず、すぐさまマスクを被ります。たぶん、高校野球でしょう。今年もプロ野球を一度、高校野球の予選を一度観戦しましたが、両者の大きな違いの一つに、試合時間の長さがあります。プロ野球の平均試合時間は3時間を超えますが、高校野球は2時間程度です。これは、一球場で一日3試合を消化しなければならないからですが、試合中は主審がタイムキーパーとなり、球児たちは貴重な時間を無駄にしないように機敏に動きます。かつては、バッターアウトのたびに内野がボールを回してからピッチャーに返球していましたが、げんざい、それは行われていません。先日、都予選を府中球場で観たかぎりでは、捕手がマスクを外す回数も非常に少なく、守備中に一度もマスクを外さない捕手もいました。さて、掲句の捕手の場合はどうだったのでしょうか。捕手がマスクを外すのは、ランナーに出られたつかの間です。暑さから出る汗と、焦りの汗が吹き出ることもあるでしょう。その汗を袖口でぬぐうけれど、マスクについている汗は拭き取らない。地味にかっこいい。一高野球部の三塁手だった作者は、ここを見逃さなかった。なお、掲句は「浮葉抄」(昭和12)所収なので、戦前の句ですが、今と変わらない捕手のひたむきな姿を伝えています。「水原秋桜子全句集」(1980)所収。(小笠原高志)


August 0282015

 雲の峯通行人として眺む

                           永田耕衣

景の句として読めます。「雲の峯」に「通行人」を連ねたところに意外性があります。凡庸な発想なら、「行人」や「旅人」としたくなるところですが、遠方上空に沸き立つ大自然と都市生活者を対置したところに、大と小、聖と俗、自然と人間の違いをくっきりと浮かび上がらせています。雄大な自然を形容する季語に、平凡な日常語をぶつけることによって、お互いが言葉の源義に立ち戻りはじめます。なお、この通行人の行動を、耕衣が目指した超時代性として読むことも可能です。すると、「雲の峯」という季節の標識を、季節の通行人が眺めて通り過ぎる意となり、実景は心象風景へと転化します。『非佛』(1973)所収。(小笠原高志)


August 0982015

 たいようは空であそんで海でねる

                           てづか和代

日記の一行のような句です。夏休みに、海水浴に行った思い出でしょうか。童女は、波にたわむれ、海にただよい、砂浜のパラソルの下で寝ころんで、雲の流れを追います。太陽は、強烈な光を放射していて、目をつぶっても瞼の薄皮を突き抜けて、目の中はオレンジ色の光です。午後になって再び、波にたわむれ、海にただよい、砂浜のパラソルの下で寝ころんで、雲の流れを追います。さっきはまぶしくて目をつぶってしまったけれど、いまは、わきあがり始めた入道雲をじっと見続けることができます。午前中にパラソルの前方にあった太陽は、今、パラソルの後方にあるからです。このとき、8才のてづか和代さんは、たいようは空であそんでいることをしりました。夕方、民宿の窓から海に沈む夕日を見て、和代さんも、すっかり眠くなりました。またあしたあそびましょう。なお、掲句は、各国の児童が参加したハイク・コンテストから優秀作品をまとめた『地球歳時記』(1995)所載で、英訳も付記しておきます。The sun Plays in the sky and Goes to sleep in the ocean(小笠原高志)


August 1682015

 盆のともしび仏眼よろこびて黒し

                           飯田龍太

の本堂でしょうか。「盆のともしび」の字余りが、そのまま細長く伸びる灯明の光になっています。その光には、槍の剣先のような鋭い緊張がありますが、それは同時に仏像の切れ長の眼を照らし、微笑しているように見えてきます。漆黒の仏像は盆のともしびを得て、見る角度によって、また、見る者の心模様によって喜びや慈悲の表情を見せるのでしょう。ふだん、寺の本堂に足を運ぶことはなく、最近の葬儀はセレモニー会場で行なわれることがほとんどなので、観光や展示以外で仏像を見ることは 少なくなりました。しかし、仏像は常に在って不動です。夜は、闇の中に同化して、その存在も無に等しくなっているのでしょうが、陽が射し始めるとふたたびその存在は顕在し始めます。灯明が点火されると多様なコントラストを得て、仏像は、見る者の心のあり様を見せてくれるのでしょう。そう思うと、盆には仏事らしきことの一つでもしておかなくてはという気持ちにさせられました。仏像を見ていないのに、仏像の句を読み、少し心おだやかになりました。『麓の人』(1965)所収。(小笠原高志)


August 2382015

 空蟬のかなたこなたも古来かな

                           永田耕衣

語辞典によると、「空蝉」は「ウツシオミ=現臣」が転じた言葉です。よって、第一義はこの世の人という意味です。また、「空蝉の」は「世」にかかる枕詞で、「万葉集482」に「空蝉の世の事なればよそに見し山をや今はよすかと思はむ」があります。奈良時代には、はかないという意味は必ずしも持っていなかったけれど、平安時代以後は、蟬の脱け殻の意と解したので、はかないという意味になったといいます。以上、大野晋氏の解説によりました。これをふまえて掲句を読むと、二通りの読み方ができ そうです。一つ目は、「空蝉の」を枕詞として読みます。すると、枕詞の意味は考えないで読むことが常套なので、中七下五だけの意味になります。二つ目は、「空蝉」を蟬の脱け殻として即物的に読みます。すると、蟬の脱け殻は、古来から遍在しているという意味になります。それが無常観だととることもできますが、いずれも句を読みとった手応えが残りません。ただし、有季定型に納まっていて、中七以下「カ行音」と「ナ」音の韻律が調べを出しているので、口になじみやすい句になっています。何度も口ずさんでいると軽やかな気持ちにもなります。作意がどこにあるのかは不明ですが、軽みは確かです。「空蝉」は、実体として軽く、「かなた」「こなた」「古来」は、実体のない抽象語として、空っ ぽの軽さがあるからでしょうか。そういう遊びなのかもしれないし、まったく的外れなのかもしれません。なお、句集では掲句の前に「空蝉を出して来るなり高めにぞ」があり、これも意味不明です。意味不明だけど面白い。「天才バカボン」みたいなものか。なお、ここまで書き終えて、句集「後記」を読みました。「私は思った。彫刻、絵画、文学でさえ、超秀作というものは、論理思考を優に超越して、真実<在って無き>魅力を窮極とするものだ。ソレはソノ魅力が<虚空的>であるが故である、というのが現在私の生涯的決断である。」『泥ん』(1992)所収。(小笠原高志)


August 3082015

 遠浅や月にちらばる涼舟

                           村上鬼城

浅の海が、一枚の扇のように広がっています。その中心には月が光り、幾艘かの納涼舟がちらばっています。納涼の舟遊びの客たちは、お月見を先取りしているのでしょうか。それとも、花火とは違った夏の夜空を楽しんでいるのでしょうか。おだやかな波に揺られ舟べりに当たる波音を聞きながら、涼風を受けています。しかし、そんな風情を想像しながら眺める作者の視点は、海岸から見た情景です。満月なら、遠浅の海は凪のさざ波に月光が広がっていて、月の光の波の上に幾艘かの納涼舟がちらばっているだけです。天空の月と、海面上の月光に点在する涼舟。一枚の扇の絵のようです。なお、季語は「涼舟(すずみぶね) 」で夏ですが、「月」に秋を予感します。『定本鬼城句集』(1940)所収。(小笠原高志)


September 0692015

 名月やマクドナルドのMの上

                           小沢麻結

れ字が効いています。それは、遠景と近景を切る効果です。また、月光と人工光を切り離す効果もあります。句の中に二つの光源を置くことで、「名月」も「M」も、デジタルカメラで撮ったように鮮明かつ双方にピントが合った印象を与えています。視覚的にはフラットなイメージを受けますが、名月を詠むからには、自ずと先人たちの句を踏まえることになるでしょう。名月を入れた二物を詠む場合、先人たちは山や雲や樹や水面など、自然物と取り合わせる詠み方がふつうでした。例えば、其角に「名月や畳の上に松の影」があります。これも、切れ字によって空間を切り分けていますが、掲句と違う点は、光源が名月だけである点と、時の経過と風の有無によって「松の影」が移ろう点です。これに対して、「マクドナルドのM」は停電しないかぎり変化しません。それは、都市の記号として赤い電光を放ち続け、街々に点在しています。ところで、句集には「月探す表参道交差点」があります。これをふまえて掲句を読むと、「名月」は、あらかじめ作者の心の中に存在していただろうと思われます。その心象が現実を引き寄せて、都市の記号M上に、確かに出現しました。それは、Meigetsuと呼応しています。『雪螢』(2008)所収。(小笠原高志)


September 1392015

 あやまちはくりかへします秋の暮

                           三橋敏雄

りは、謝れば許してくれます。しかし、過ちは、そうはいきません。昭和59年(1984)の作です。前年末に第二次中曽根内閣が組閣された時代です。この内閣は、8月15日に全閣僚が靖国神社を参拝し、また、第三次中曽根内閣では防衛費1%枠を撤廃しました。作者は、このような右傾化の時代状況を深く憂慮していたものと思われます。それは、句集で掲句の直前に「戦前の一本道が現るる」があるからです。作者は戦後しばらく、戦没遺骨を収集しそれを輸送する任務を遂行しました。察するに、戦前の悲惨を骨身にしみ込ませているはずです。「永遠に兄貴は戦死おとうとも」。これらを踏まえて掲句を読むと、作者の意志は、対句である「戦前の一本道が現るる」とともに逆説にあります。そして、これらの句は、現内閣に対しても突きつけられうる警句といえるでしょう。他に「冬の芽の先先国家秘密法」。『畳の上』(1988)所収。(小笠原高志)


September 2092015

 しんじつの草の根沈み蛇は穴へ

                           金子兜太

の彼岸の頃に蛇は穴を出る。秋の彼岸の頃に蛇は穴に入る。季語の上ではこのような習わしになっていますが、蛇が冬眠の準備を始めるのはもう少し先のことです。掲句は、『詩経國風』(1985)所収。「あとがき」によると、『詩経』は、孔子によって編まれた極東最古の詩集で、その中で「風」に分類された詩編は、恋を歌い、農事を歌い、暮らしの苦しさを訴え、為政者への反省をうながす歌謡です。ところで、小林一茶は41歳のとき、一年がかりで孔子の『詩経國風』と睨めっこをしながら俳句を作り俳諧 修行をしました。当代随一の一茶信奉者である金子兜太は、一茶の句を理解するためには原典を読まないわけにはいかないと考え、「読むほどにミイラ取りがミイラになってしまったのである。(略)古代中国の歌のことばをしゃぶりながら、私は歌の背後の現実と人々の哀歓愛憎にまで感応してゆき、俳句にことばを移しつつ同時にその感応を書き取ろうとした」とあります。句集は「麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人」から始まり、所々に『詩経』の言葉が織り交ざる句が連なりますが、掲句は句集の終わりから二番目の位置です。この句は、孔子と一茶へのオマージュのようでもあり、あとがきでは自身を「盲蛇」に喩えているので『詩経』に対峙した自画像のようにも読みとれます。「しんじつ」とは、真の実 です。それは、言の葉から花が咲き、結実することです。そのためには、草の根を沈めて、盲蛇のような自分は『詩経』の穴の中に沈んで、沈潜して、ようやく真の実りを得られるのかもしれません。そんな寓意を読みとりました。(小笠原高志)


September 2792015

 歳月の胸をこおろぎ蹴り尽す

                           永田耕衣

11句集『物質』(1974)所収です。「あとがき」に、書名の由来が記されています。「精神とて即物質に過ぎぬ(略)身心即物質(略)私という物質から不法にも跳ね出た瓦礫の数数、約六百句は、ここマル三年間の無茶苦茶行を証す赤裸裸に過ぎない。」一元論に徹しています。耕衣は、f-MRIの発明によって、脳を臓器として即物的にとらえることを 可能にした脳科学の見方を先見していたのかもしれません。さて、掲句の「歳月の胸」は、お初にお目にかかる比喩です。これを人体 から即物的にみると、胸には胸筋の起伏があり、肋骨には凹凸が、乳房にはふくらみがあります。今年六月に亡くなった文化人類学・言語学の西江雅之先生は、世界は濃淡と凹凸だけで出来ているとよく話されていましたが、「歳月の胸」も同様に、地表の凹凸のことのように思われます。そんな地表を「こおろぎ」が「蹴り尽す」。ここから、「蹴る」という動詞に論点を移します。蹴る直前の地表Pは、こおろぎにとって未来ですが、蹴った直後の地表Pは、こおろぎにとって過去です。では、こおろぎの現在はどこに在るのか。それは、こおろぎの身体=物質=動体です。ところで、俳句を作るうえでは「こおろぎ」という秋の季語を必要としますが、耕衣が、「存在の根源を追尋すべき事」と言っている俳句信条を ふまえると、さらに敷衍(ふえん)できるでしょう。物質としての動物(人間)は、つねに目の前の地表Pに未来として向き合い、それを現在化すること(蹴ること、即ち行動すること)によって地表Pを過去にしていきます。つまり、「歳月の胸」を「蹴り尽す」行動の連続は、現在から未来を「踏み」、その未来を「蹴って」過去を創ることです。「蹴り尽す」直前には未来を「踏みだす」実存があり、その時「胸」の内側に鼓動を感じとれるかもしれません。(小笠原高志)


October 04102015

 学生寮誰か秋刀魚を焼いている

                           ふじおかはつお

月22日、午後12時30分前。車を運転しながら、NHK第一放送を聞いていた時に、読まれた句です。お昼のニュースの後にのどかな音楽が始まって、各地の土地と暮らしの様子をアナウンサーが語る「昼の憩い」という10分の番組で、終わりには一句または一首が読まれます。もう、何十年も続いている番組なので、耳にしたことのある方は多いでしょう。農作業の畑の畦(あぜ)で、お弁当を食べながら聞くリスナーも少なくないようです。ラジオから掲句を聞いて、懐かしい気持ちが秋刀魚の匂いとともに届きました。この学生寮は、たぶん、1960年代くらい。まだ、旧制高校の寮歌がうたい継がれ、「デカンショ節」どおりの蛮カラな生活の中で、人生と哲学を語り合って教養を 熟成する場が学生寮でした 。高度経済成長が始まったとはいえ、日本はまだ貧しく、学生たちは、いつも腹を減らしていました。その時、寮のどこからか、煙とともに秋刀魚を焼く油の香ばしい匂いがたちこめてきます。寮生たちの嗅覚は犬猫なみですから、本を読んでいた者、洗濯していた者、将棋を指していた者、昼寝をしていた者それぞれが立ちあがり、ゾロゾロ匂いの元に向かいます。さて、寮の庭の隅で隠れるように七輪で焼かれていた秋刀魚一匹は、無事、焼き手の口にだけ納まったのか。それとも、箸を手にして七輪を取り囲む猛者たちに分け与えられたのか。50年前の秋、北大の恵迪(けいてき)寮や京大、吉田寮の実景でしょう。(小笠原高志)


October 11102015

 稲妻や笑ふ女にただ土下座

                           正津 勉

妻をご神体とする神社があります。群馬県富岡市にある貫前(きぬさき)神社です。神社はふつう、石段を登った先に本殿がありますが、ここは石段を下ります。本殿まで下ってきた石段を見上げると、その向こうはるか上空に稲含山の頂が見えます。太古の人は、稲含山から稲妻が光るのを見て、その雷光が稲を成育させる神、すなわち稲妻として信仰してきました。掲句は、正津氏の女性に対する信仰が如実に戯画化されています。稲妻は、自然界のそれとも、人間界(女性)のそれともとれます。天の轟き、女の怒り。しかも、女は笑っている。ところで、怒りながら笑うことってあり得るだろうか。笑いには、愉快、痛快といった快の発露もあるけれど、嘲笑や冷笑といった不快を示唆する場合もあります。掲句の女は、むしろ、哄笑や高笑いの類で勝利宣言ととれます。女の感情は、上五では怒りの稲妻だが、「や」で切ることで、時間も切れ、感情も切り替わります。この時点で、既に男は土下座している。怒りを発散して、高ぶった気持ちからただ土下座する男を見て、女はニヤリと笑う。この優位は動かない。怒りでこわばっていた頬は、優越感からしだいにゆるみます。やがて、女には、男を許す感情が芽生え始めるのではないでしょうか。ズタズタに傷ついたスネを隠し、ただひたすら土下座する男を見下して、女は観音様に近づいていく。数々の女性問題を穏便に解決してきた正津勉の秘技土下座。他に「春寒や別れ告げられ頬打たれ」。自身を低めて女を立てる。見習いたい。『ににん』(2015秋号)所載。(小笠原高志)


October 18102015

 ながき夜の枕かかへて俳諧師

                           飯田蛇笏

諧師。こりゃあうまい。江戸時代から続く俳諧の伝統の中で、何百、何千、何万人の俳諧師たちが秋の夜長に枕をかかえたことか。作者もその一人、私もその一人、たぶん読者もその一人。掲句は、作者の自画像でありながら、読者にとっては鏡を見ているような句です。誰もが、眠れなかったり翌日の句会の句ができていなかったりして、頭に敷いていた枕を胸にかかえて句帳を開き、歳時記をめくり始めて、布団の中で繭のように句をつむぎ始めた夜を過ごした覚えがあるでしょう。そのとき、頭をかかえ るのではなくて、枕をかかえるところが俳諧師ぽくって面白い。作者の場合、理由ははっきりしていて、前書に「半宵眠りさむれば即ち灯をかかげて床中句を案ず」とあります。掲句は大正6年の作ですが、大正9年には、「秋燈にねむり覚むるや句三昧」があります。掲句を所収している『山廬集』(昭和7)は、制作年代別、四季別に配列されています。ざっと見渡したところ、大正時代以降は秋の句が一番多く、これは、長き夜の寝床の枕が多くを作らせてくれているのではないかなと邪推します。有名な「芋の露連山影を正しうす」(大正3)も同句集所収です。『新編飯田蛇笏全句集』(1985)所収。(小笠原高志)


October 25102015

 銀河逆巻くその十指舞ひやまぬ

                           黒田杏子

書に「大野一雄公演 パークタワーにて」とあります。大野一雄の舞踏を観た人なら、「銀河逆巻く」は比喩でも誇張でもなく、嘱目ととらえるでしょう。私は20回ほど大野氏の舞台を観、また、数回、舞踏の稽古に参加させていただきました。稽古の前には十数名程の研究生と紅茶を飲み、クッキーを食べながら、生命と宇宙の話をされるのが常でした。「卵子と精子が結合すると、卵子は回転を始めます。それが、ワルツの始まりです。」30分ほど話されてから、「あなたたちは、宇宙的な舞踏家になってください」と、いったん話が終わり、「では、今日もフリーにフリーにいきましょう」のひと言で、研究生たちは各々それぞれの位置で立ち止まり、動き始めます。フリーな動きの中にも三つの要諦があります。一つは、爪先立ちであること。二つ目は、屈む姿勢であること。三つ目は、身体の一箇所は必ず天を向いていること。地に対して向かう屈みの姿勢こそが、土方巽が創出した地の舞いである舞踏であり、大野一雄の独創は、その姿勢を保ちながら天に引っ張られるような垂直の意識を志向するところにあります。たとえば、バレリーナは、身体の軸が天に向かっていますが、大野の舞踏は、地と天に対して同時に向かう意識に特徴があります。大野氏はこれを「together」と言いました。天と地の両方に引っ張られている緊張に舞踏家の立ち居があり、それは、植物が根を張らすために地中をまさぐっていると同時に、天の光に向かって伸びようとしている意志と同じです。この姿を「宇宙的な舞踏家」と言ったのだと思います。大野一雄は、痩身で小柄でしたが、掌が大きく指が長く、同時代の他の舞踏家、例えば息子の大野慶人、笠井叡、麿赤児と比較しても、十指の動きが複雑で、表情が豊かでした。それは、時に昆虫の脚の動きのように見えることもあれば、饒舌な手話にも見え、指で地を天をまさぐり宇宙をつかもうとする強情でした。ですから、「銀河逆巻くその十指」は、比喩でも誇張でもなく、現実です。『花下草上』(2007)所収。(小笠原高志)


November 01112015

 うぐいす張り刀引き寄す夜寒かな

                           西川悦見

円寺北口2分の所に、居酒屋「赤ちゃん」があります。現在の店主、赤川徹氏の尊父が歌人だった縁で、周辺に住む文人墨客が集った酒場で、店名は、井伏鱒二の命名です。映画・演劇・文学を好む客が多く、その流れで最近は、店で定期的に句会を開いていて、誰もが自由気ままに参加しています。また、店主が将棋好きとあって、腕自慢の酔客とカウンター越しに指すこともしばしばで、時折プロ棋士も立ち寄ります。先夜、久しぶりに将棋を指しに行ったところ、「第十八回赤ちゃん句会」の作品一覧三十余句を見せられて、「これは訳がわかんない」と断言したのが掲句です。他に「秘めごとの牛車を止める良夜かな」があって、これは蕪村の平安調の作りみたいだね、なんてしたり顔で喋っていたところ、掲句の作者が店に現れ私の横に座り、焼酎割りを呑み始めました。「西川さん、秘めごとの句は蕪村調で面白いけれど、うぐいす張りはチンプンカンプンだよ」。すると、「うぐいす張り」は、廊下を歩くと音が出る仕掛けのことで、武家屋敷の忍者除けであることを教えてくれました。そういえばそうだった、なるほど!これで俄然、寒夜の緊迫感が伝わってきました。「張る・引く・寄す」は、緊張つながりの縁語と言ってもよいのでしょう。西川氏は、蕪村の「宿かせと刀投げ出す吹雪哉」の歌舞伎的な作りが好きで、換骨奪胎の句を作ってみたかったといいます。蕪村の句は大音声の荒事で、西川氏の句は「引き寄す」動作が機敏で静かな侍のリアリズムです。これは、蕪村もほめてくれるでしょう。他に、「原発も紅葉もつぶしゴジラ征く」。この夜、西川氏の俳号が不損(ふそん)と決まりました。(小笠原高志)


November 08112015

 水底より冬立つ湖や諏訪の神

                           吉田冬葉

訪湖は、周囲約16km。諏訪市、上諏訪町、岡谷市の市街地に囲まれた、生活の場が近い湖です。湖畔には旅館や飲食店、民家も建ち並び、ジョギングコースを走るランナーや犬の散歩を楽しむ住民の憩いの場です。晴れた平日の夕方は、諏訪清陵高校のボート部員男女が、数艇、ボートを漕ぐかけ声が響き渡ります。八ヶ岳に抱かれながら、湖面に流れる雲をオールでかく青春がまばゆい。諏訪の町並みを歩くと、水流の音が聞こえてきます。これは、八ヶ岳から流れる水が、道下の水路を伝って諏訪湖に向かって流 れゆく音です。諏訪湖は、四方周囲の山々に降る雨を森がいったん保留して、その湧水から成っていることを物語っています。「諏訪の神」は、『古事記』にも出てくるように出雲大社の弟にあたり、兄と違って国譲りに賛成しなかったので、諏訪の地から出られない神とされています。ただ、興味深いのは、神話の記述よりもむしろ、この土地の人々の多くが、諏訪大社をはじめとするいくつかの神社の氏子であり続けていることです。来年は申年なので、七年に一度の御柱祭があります。山から樹齢約二百年の樅の巨木を十六本伐り、氏子たちは、山を曳き、坂を下り、川を越え、里を曳き、四社の社殿に四本の柱を立てる祭です。すでに、樹を伐採する神事はとどこおりなく行なわれており、その様子は諏訪のC ATVで日々、中継されています。古くから、諏訪大社の御神体は守屋山と言われてきましたが、この山をはじめとして、周辺の山林には人の手がよく入っていて、適度に間伐が行なわれています。私の見立てでは、「諏訪の神」は山の神、森の神、水の神といってよく、諏訪湖は、この地域全体が鎮守の杜であることを映し出す鏡池であると考えます。今日、標高759mの湖面には、冷たい立冬のさざ波が立っていることでしょう。来年の立春の頃には、湖が氷結して大音響を立ててせり上がる御神渡りが見られるでしょうか。『入門歳時記』(角川書店・1993)所載。(小笠原高志)


November 15112015

 花嫁を見上げて七五三の子よ

                           大串 章

んな句評があります。「着飾った子どもを連れて、神社に参詣に出かけた。親の目からすれば、当然この日の主役はわが子なのだが、子どもにしてみれば主役の意識などはいささかもない。したがって、折しも神社で結婚式という花嫁を見かけた途端に、子どもは口あんぐりと花嫁姿に見惚れてしまったというわけだ。お前だって主役なんだよ。そう言いたい気持ちもあるけれど、親としてはただ苦笑しているしかないという場面である。主役意識のない七五三の子どもの句は多いが、着飾った者同士の対比から 描いた句は珍しい。」講談社『新日本大歳時記 冬』(1999)所載で、清水哲男の署名があります。句も評も見事なので七五三の今日、紹介させていただきました。十一月は秋の結婚シーズンでもあるので、掲句のような微笑ましい光景は、どこかの神社で見られそうです。この子どもは、男の子でも女の子でもありうるでしょう。けれども、花婿ではなく、花嫁に視線が集まるのが世の常で、老若男女みな然りです。あらためて、結婚式の主役は花嫁なんですね。花嫁がみんなの視線を持って行く。他に「タクシーに顔がいっぱい七五三」(青山丈)があり、祖父母も交えた三世代が揃って、孫を膝に乗せている姿です。子どもが主役のハレの日は、おだやかな小春日和が似合います。(小笠原高志)


November 22112015

 落葉焚き人に逢ひたくなき日かな

                           鈴木真砂女

に会いたくない日があります。寝過ぎ寝不足で顔が腫れぼったい日もあれば、何となく気持ちが外に向かず、終日我が身を貝殻のように閉ざしていたい、そんな日もあります。長く生きていると、事々を完全燃焼して万事滞りなく過ごす日ばかりではありません。人と関わりながら生きていると、多かれ少なかれ齟齬(そご)をきたしていることがあり、心の中にはそれらが堆積していて、重たさを自覚する日があります。そういう日こそ、心の深いところにまで張り巡ぐらされていた根から芽が出て言の葉が生まれてくるのかもしれません。句では「逢ひ」の字が使われていることから、逢瀬の相手を特定しているとも考えられます。句集では前に「落葉焚く悔いて返らぬことを悔い」があるので、そのようにも推察できます。完全燃焼できなかった過去の悔いをせめて今、落葉を焚くことで燃焼したい。けれどもそれは心の闇をも照らし出し、過去と否応なく向き合うことになります。それでも焚火は、今の私を明るく照らし、暖をとらせてもらっています。句集では「焚火して日向ぼこして漁師老い」が続きます。これも、婉曲的な自画像なのかもしれません。『鈴木真砂女全句集』(2001)所収。(小笠原高志)


November 29112015

 古家のゆがみを直す小春かな

                           与謝蕪村

春は小六月とともに、陰暦十月の異名です。現在なら、十一月中旬から十二月上旬あたりの期間を意味しますが、近現代の例句をみると、小春日や小春凪といったおだやかな日和の情景として詠んだ句がほとんどです。その点蕪村の句は、小春を本来の意味で使っています。この時期、田畑の収穫を終えた農家は、ようやく傾いた家の建て直しに手が回ります。一家総出で、隣人を助っ人に、余裕があれば大工の棟梁も招くことでしょう。この作業は、無事に冬を越すためでもあり、晴れやかに新春を迎えるためでもあります。家の中を大掃除する前に、まずは普請を万全にしようという季節のいとなみです。そう思うと、「小春かな」で切れるのも納得できます。なお、小春の初 出を調べて みたら六世紀半ばに中国の年中行事を記した『荊楚(けいそ)歳時記』に「小春」(ショウシュン)の項がありました。鎌倉末期の『徒然草』155段には「十月は小春の天気、草も青くなり、梅もつぼみぬ」があり、江戸初期の『毛吹草』に冬の季語として定着しています。芭蕉は「月の鏡小春にみるや目正月」(続山井)の一句だけを残していて、これも陰暦十月として使っています。『蕪村俳句集』(岩波文庫・1989)所収。(小笠原高志)


December 06122015

 寒鯉を抱き余してぬれざる人

                           永田耕衣

条理です。高校時代に背伸びをして読んだカミュの『シーシュポンスの神話』に、こんな記述がありました。「川に飛び込むが、濡れないことを不条理という」。『異邦人』のムルソーの心理を説明している箇所でしょうが、当時は全く理解できませんでした。しかし、身の回りで時に起こる不条理な事象を見、聞くにつれ、今はカミュの不条理が腑に落ちます。さて、掲句では、寒鯉を抱いているのにぬれない人が存在することを書いているのだから、不条理です。訳がわかりません。ところが、句集では次に「亡母なり動の寒鯉抱きしむる」があったので、句意がはっきりしました。「ぬれざる人」は「亡母」のことでした。ならば寒鯉は、生前も死後も母を深く慕っている息子耕衣その人でしょう。寒鯉のように、生臭く濡れている自身を母は死んだ今でも抱きしめにやってきてくれる。三途の川の向こうは、濡れるということがないのでしょう。あの世という形而上学には、涙や汗の質感がないのかもしれません。句集には「掛布団二枚の今後夢は捨てじ」もあり、母に抱かれる夢を見ているのかもしれのせん。となれば、掲句を不条理とするのは間違いで、夢幻とすべきでしょう。『非佛』(1970)所収。(小笠原高志)


December 13122015

 冬空は一物もなし八ヶ岳

                           森 澄雄

書に、「甲斐より木曽灰沢へ 十句」とある中の四句目です。二句目に「しぐれより霰となりし山泉」があります。山あいの泉を訪ねているとき、しぐれは霰に変わり、寒さの実感が目にもはっきり見える趣きです。この二句目は、しぐれ、霰、泉という水の三つの様態を一句の中に盛り込んでいて、掲句の「一物もなし」に切れ味を与えています。諏訪盆地あたりから見た八ヶ岳でしょうか。独立峰ではなく連山を下五に置くことで、広角レンズで切り取ったような空の広さを提示しています。この冬空は、水気が一切ない乾燥した青天です。ところで、当初は七句目の「山中や雲のいろある鯉月夜」を取りあげるつもりでしたが、単独で読むと句意も季節もはっきりしないので、断念しました。「鯉月夜」は、たぶん造語です。木曽谷の山中に移動して、月夜の空を見上げると、雲の色彩によって、それが鯉の鱗のように見えたということでしょうか。鯉の養殖が盛んな土地でもあるので、今宵の食卓に鯉こくを期待する心が、雲を鯉に見立てさせたのか。恋しいに掛けたわけではないでしょうが、鯉月夜という語が食欲と結びついた風景なら、茶目っ気があります。なお、十句目の「やや窶(やつ)れ木曽の土産に山牛蒡(ごぼう)」以外は叙景の句なので、鯉こくを食べながら月夜を見ているのではなさそうです。と、ここまで書いて、「ちょっと待ってちょっと待ってお兄さん」という声が聞こえてきました。「鯉月夜」とは、池の水面に雲と月が映り込んでいるその下で、鯉がひっそり佇んでいる。そんな写生のようにも思えてきました。宿の部屋から池の三態を眺めているならば、これも旅情でしょう。『鯉素』(1977)所収。(小笠原高志)


December 20122015

 その中の白衣も遺品熊楠忌

                           小畑晴子

和16年12月29日、博物学者・南方熊楠が亡くなりました。広汎な視座を持った世界的な学者でしたが、私は、粘菌学者としての熊楠に魅かれています。正岡子規、夏目漱石とは東京大学予備門の同級生でしたが、代数の得点が足りず落第。博覧強記とは熊楠のためにある言葉だと思いますが、唯一計算だけが苦手でした。19〜24歳のアメリカ留学時代に植物採集に開眼し、25〜32歳のイギリス滞在中は、科学雑誌『ネイチャー』に三十本もの論文を投稿。その頃、イギリス人たちに対して英語で東洋の学問の伝統を説く活動に刮目したのが、亡命中の若き孫文でした。三か月の間、大英博物館やパブで語り合った別れ際、孫文は「海外逢知音(海外にて知音と逢う)」という一句を熊楠の日記帳に記しており、これは現在も和歌山県白浜にある南方熊楠記念館に所蔵されています。掲句の白衣もまた、同所の展示物でしょう。私は今年、熊楠をモチーフとしたドキュメンタリー映画『鳥居をくぐり抜けて風』(池田将監督、公開未定)を製作しました。紀伊半島の鎮守の杜を中心に撮影しています。三年前にロケハンに行く時、一つの謎がありました。和歌山県は、熊野本宮がある土地なのに神社の数が438社しかなく、全国で46位です。ちなみに1位は新潟県で、4775社です。その謎を解いてくれたのが熊楠記念館に展示している新聞記事と文書でした。要約すると、明治39(1906)年、西園寺内閣は神社合祀令を発令。神社を「官社」「府県社」「郷社」「村社」「無格社」に系列化して大整理をしたことによって、全国20万社のうちの約7万社が合祀。とくに、三重・和歌山ははなはだしく、和歌山では3713社のうち7割近い2913社が合祀された。熊楠は、庶民の生活に結びついた神社を合祀することによって伝承されてきた民俗が絶え、また神社林を中心とした自然の生態系が破壊されることをおそれ、果敢に反対した。日本で最初の環境保護運動を行なう中、柳田国男宛の書簡でこれも日本で初めてecology(エコロジー)という言葉を使っている。合祀令の思考には、中央集権化を推進していく一神教的な合理主義がはたらいているので、神社林といったあいまいかつ非生産的な空間を整理統合しようとします。これが、戦前の国家神道のひとつのあり方であり、天皇原理主義でもありました。しかし、それぞれの鎮守の杜は、その土地独自の生態系を形成しています。目には見えにくい大切なはたらきをする存在を神というならば、熊楠は、動物と植物の中間的な性質を持ちつつ、それぞれを繋いだ粘菌類のはたらきに神を見、鎮守の森の空気の清らかさそのものの具体的な現実に、抽象的な創造主とは違う日本のアイデンティティを見いだしていました。生物学者でもあった昭和天皇は、昭和37(1962)年に南紀白浜を訪れた時、田辺湾神島における熊楠の粘菌類ご進講を懐かしみ、「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠みました。『新日本大歳時記 冬』(講談社・1999)所載。(小笠原高志)


December 27122015

 百八はちと多すぎる除夜の鐘

                           暉峻康隆

者、暉峻(てるおか)康隆は江戸文学の泰斗で、とくに西鶴研究の第一人者です。1980年代にはNHKお達者文芸で短歌・俳句・川柳の撰者として、その洒脱な話術で小鳩くるみと共演して視聴者を楽しませました。私は、大学を卒業してからも社会人講座で先生の話芸を楽しみながら芭蕉と蕪村と一茶を学びました。その時、「蕪村も生前は句集を出さなかったのだから俺も出さない」とおっしゃっていたことを覚えています。掲句は先生の死後、早稲田大学の教え子たちが遺稿一千余枚を編集した『暉峻康隆の季語辞典』(2002)に所載された句です。先生は句集は出しませんでしたが、季語と例句解説の最後に「八十八叟の私も一句」と締めます。この季語辞典で、鹿児島県志布志町の寺に生まれた暉峻は、百八の鐘のルーツを探っています。以下、要旨を記します。江戸中期の禅宗用語辞典『禅林象器箋』(1741)に「仏寺朝暮ノ百八鐘、百八煩悩ノ睡ヲ醒ス」とあり、寺の百八の鐘は毎日の朝暮の鐘のことだった。それをサボッテ、除夜だけ百八鐘を撞くようになったのは江戸後期からである。「百八のかね算用や寝られぬ夜」(古川柳)は、宝暦年間(1751~1764)の作で、除夜の鐘の句の初見である。句意は、西鶴の『世間胸算用』にもあるように、大晦日の夜更けは借金取りが押し寄せるので安眠できない庶民の実情。つぎに、「どう聞いてみても恋なし除夜の鐘」(乙二・1823没)。辞典をそのまま引用すると、「この人は歳時記にとらわれない実情実感派であったようだ。人間の煩悩の中でもっとも重い性愛を筆頭とする百八煩悩を浄めるための除夜の鐘なのだ、と思いながら聞くのだから、色気がないと思うのはもっともだ」。さて、「除夜鐘・百八鐘」が季語として定着したのは意外に新しく、改造社版『俳句歳時記』(1933)と翌年刊、虚子の『新歳時記』からで、その虚子に「町と共に衰へし寺や除夜の鐘」がある。だから、一般的な歳時記の例句も近現代なんですね。掲句に戻ります。私の記憶では、掲句は先生が1988年(八十歳)頃の朝日新聞夕刊でインタビューされていた時に引用されていて、当時の仕事仲間もこれを読んで、「年をとるとこんな心境になるのかねぇ」と云っていました。自身は辞典の中で「実感であるが、煩悩を根こそぎ清算されると、いくら因業爺でも来る年が淋しい。」と書き、「新しき煩悩いずこ除夜の鐘」で締めています。米寿を過ぎて、この前向き。(小笠原高志)


January 0312016

 初山河雲になりたき兎かな

                           原田宏子

春のファンタジーです。澄み切った青空の中、冠雪した山の方から河が流れています。その広大な遠景をみつめる一羽の兎は、雲になる夢を見ています。「わたしの白くてふわふわの毛は、あの白くてふわふわの雲とそっくりだ」「わたしは飛び跳ねることが得意だから、いつかきっと空高く舞い上がることができるだろう」。そんな兎のけなげな夢です。しかし、リアリストは頭ごなしに否定します。「どんなに色が白くても、どんなに毛がふわふわしていても、どんなに跳躍が得意だろうと兎は雲にはなれないよ」。けれども私は思うのです。正月の三が日くらいは、こんな夢を見ていていいのではないかと。新春の兎なら、新春らしく浮世離れして、その跳躍が雲に届くこ とを夢見て いていいのではないかと。ちょっと浮かれてうわついて、雲になりたい兎でいていいのではないかと思うのです。『雲になりたき兎』(2005)所収。(小笠原高志)


January 1012016

 冬の夜や灯り失くして木漏れ星

                           郷 拓郎

月二日の夜。友人の山荘で、旧知の三人と初対面の三人とで一晩を過ごしました。「ゴウです」と挨拶されたその声が繊細で女性的で髪が長かったので、彼が男性であることを認識するまで6時間かかりました。深夜、他の四人が寝静まって、二人暖炉の前で酒を飲みながら、ゴウ君が音楽家であることと恋話など聞いていたとき、「小笠原さんは何者なのですか」と聞かれたので、私は外に出て尺八を吹き、一句作って、「ゴウ君も一句作らないと中には入れさせない」と言ったらしいのです。ゴウ君が、森の木と木の間から見える星をみつめながらひねり出したのが掲句。翌日、前夜の記憶をほとんどなくしていた私は、外に投げ出されていた尺八の袋と、逆さに置いてある缶ビールを見て、かすかに記憶を取り戻し、今年最初の一句をゴウ君に揮毫してもらって、駅でハイタッチをして別れました。(小笠原高志)


January 1712016

 鉛筆の芯に雪解の匂ひかな

                           武井伸子

筆の芯に鼻を近づけると甘い匂いがします。これを雪解の匂いとしたところに飛躍があって新鮮です。たしかに、雪解は早春の草木がかすかに発する息吹を運んでくれるのかもしれません。キーボードやタブレット使用が一般的な現在、鉛筆を使う人はめっきり減りましたが、昨日今日は大学入試センター試験です。全国693箇所で56万本の鉛筆が動くとき、それぞれの会場には甘い香気が漂うのでしょう。受験生は、今まで蓄積してきた知識を鉛筆の芯に託して、堅固な意志を鋭角に削られた鉛筆の先に宿します。問一、問二、問三、「やれそう、やれる」という手応えは、受験生を緊張から解放してランナーズハイに似たある種の快楽へと誘います。「雪解」は春の季語ですが、受験生たちは、いち早くその匂いを実感しているのではないでしょうか。「ににん」(2016年・冬号)所載。(小笠原高志)


January 2412016

 雪の肌なめらか富士は女体なり

                           山口誓子

年、初詣に富士を拝みます。今年の正月は雪不足のため、富士の山容には黒い縦の筋が幾つか通っていました。その姿はどこか険があって厳しいものでしたが、先週の降雪によって、富士は白い美肌美人になりました。作者同様、私もそんな富士に女体を見ます。富士は万葉集に詠まれ、竹取物語に描かれて、上代から日本人に親しまれてきましたが、信仰の対象としての富士は上代をはるかに遡った時代に起源があると思われ、神話では「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」という美しい娘とされて います。作者はこれを踏まえ、この民族的な擬人化をごく自然な写生句のように仕立てています。ところで、たをやめぶりの富士に対してますらをぶりの富士はないかといえば、太宰治「富嶽百景」で、御坂峠の茶屋の二階から、自動車五台で年一度の旅行に連れて来られている遊女の一団を見ている太宰がそれを見ていられなくなり、「そうだ、、富士に頼もう、、おい、、こいつらをよろしく頼むぜ、、その時の富士はどてらを着た大親分のようにさえ見えた」という一節がありました。この大親分は、男気がありなおかつ苦界に生きる女のあわれに身を重ねられる、そんな義侠でしょう。女神にも、任侠にもなれる富士こそ景勝です。『山口誓子集』(朝日文庫・1984)所収。(小笠原高志)


January 3112016

 から鮭も空也の痩も寒の内

                           松尾芭蕉

蕉は、乾燥させた鮭を好んで食べたようです。「雪の朝独リ干鮭(からざけ)を噛得(かみえ)タリ」が『東日記』にあります。一方、掲句の「から鮭」は食べ物としてよりも、内臓や脂分が削ぎ落とされた物体として提示されていて、市の聖と言われた空也上人の雑念の無い痩身に重なります。日本史の教科書の口絵には、念仏を唱える空也上人の木像彫刻が掲載されていますが、この実物は京都・六波羅蜜寺の境内のガラスケースの中で無造作に鎮座しており、今も市井の存在です。史実としての空也を 検証する資料がほとんどない代わりに、各地に残されている木像彫刻からその足跡を推測できます。上人は、首から鉦(かね)を下げ、鐘を叩くための撞木(しゅもく)を手にしています。一昨年、淡路島で発見された銅鐸の中から撞木が出てきたことによって、長年その使用法が謎だった銅鐸は、祭事に叩いてその金属音を聴くための祭器であることがわかりました。それから時を経て、空也が生きた平安時代も、鉦の金属音は非日常的な音響であり、人々の内奥までその響きが届いたことでしょう。空也の木像彫刻は、開いた口元から六体の阿弥陀仏が吐き出されていて、念仏と鉦の交響という音の視覚化に特徴があります。およそ平安中期までの仏教は、文字が読める貴族階層のみに浸透していたでしょうから 、空也は、そのほとんどが文盲であった市井の民に福音を届ける宗教の革新者でした。これは、マルティン・ルターが、ラテン語のみしか認められていなかった新約聖書の表記をドイツ語で読めるように翻訳して民衆に広めた改革に比肩すると思われます。なお、掲句の前書には「都に旅寝して、鉢扣のあはれなるつとめを夜ごとに聞き侍りて」とあり、空也忌(旧暦十一月十三日)から行なう四十八夜の「鉢叩」の行に触発された句であることがわかります。その金属音は、K音の頭韻として句中に響いています。『芭蕉全句集』(角川ソフィア文庫・2010)所収。(小笠原高志)


February 0722016

 春林の遠空を見つ帯を解く

                           飯田龍太

書に、四万温泉三句とある一句目です。男の句だなと思います。それは、「春林」に漢詩っぽい語感があり、「遠空」に青年的な眼差しがあり、「見つ」「解く」にきっぱりとした切れ味があるからです。いまだ寒き早春の空の下で、素っ裸になっていざ湯に入らんとする無邪気な意気込みがあります。それは、二句目につながります。「娼婦らも溶けゆく雪の中に棲み」。昭和三十年の作で、売春防止法が施行される二年前なので、娼婦という言葉も存在も、とくに温泉地ではふつうのことだったのでしょう。娼婦たちが雪の中の温泉で浄化されているであろう様を、男目線で描いています。三句目は、「男湯女湯の唄睦み合ふ雪解川」です。板塀で仕切られた露天も、女湯からは娼婦らの唄が聞こえてきて、そのうちに睦み合うように声が重なり合います。湯は仕切られていても、唄で混浴している風流。これが、戦後十年のこの時代のきれいな遊びだったのでしょう。うらやましい。『飯田龍太集』(朝日文庫・1984)所収。(小笠原高志)


February 1422016

 鵜の列の正しきバレンタインの日

                           岩淵喜代子

日、日曜のバレンタインデーとなりました。会社や学校では、金曜日に義理チョコ・友チョコが配られたのか、それとも、明日月曜にこれが行なわれるのか。一方で、日曜の今日、わざわざチョコを手渡されたのなら、それは義理ではない友だち以上の本命宣言でしょう。今日手渡されるチョコの純度は高いようです。最近の義理チョコには、義理100%、80%、、50%、、10%、、といった「義理度」が数値化されている品が売られていて、物心がついた時から何かと数値に翻弄されてきた男たちの心をもてあそぶ商品が登場しています。また、宅急便もこの日曜をターゲットにしたスモールサイズが登場し、日本独特のこの風習が、巧みな商魂によって作られた仕掛けであることを物語 ります。 さて、掲句の鵜の列には二通りの読み方が可能です。河畔で魚を狙う鵜が、各々縄張りを確保するために等間隔に佇んでいる様です。この秩序は、義理やしがらみや本音や恋情を一個のチョコに託してパッケージとして渡す形式的行動に通じます。一方、空を飛んでいる鵜なら、その隊列は整然としたV字飛行ですから、バレンタインのV。天地に鵜有り、人に情あり、口にチョコ。『螢袋に灯をともす』(2000年)所収。(小笠原高志)


February 2122016

 少年や六十年後の春の如し

                           永田耕衣

衣、七十二歳頃の句です。現実を反転させてみると、時に奇想が生まれる一例です。前後を入れ換えることによって、句が屹立しています。老人が少年を見れば、ふつうなら六十年前の自分を思うでしょう。私も昔は少年だったと懐かしむ。しかし、これでは凡庸な嘆きです。72-60=12といった単なる引き算になってしまって、詩が成り立ちません。人生の時間には、詩的な時間もあるはずです。俳句はそのための方法です。掲句では、「少年や」の切れに注目します。目の前の少年は十二歳くらい。それは、七十二歳の私とは違う。しかし、私にも十二歳の時があった。今、その年頃を目の前にして、まぶしいくらいに思い出す、人生の春。一方、少年は私を見る。それは、六十年後の少年である。その時、少年は、老人の瞳の中に映っている少年の姿を見いだす。そして、自分は、人生の春という季節に生きていることを学びとる。少年は、人生における少年という位置を知り、老人は、少年の姿を受けとめることによって、その瞳と少年の瞳の間に六十年という歳月があることを差し示す。このとき、十二歳の春も七十二歳の春も、同じ春に生きています。人生に身を委ねるよりも、季節に身を委ねる。耕衣だから、そんな、季語の霊性と超時代性を読みます。『非佛』(1973)所収。(小笠原高志)


February 2822016

 山吹にしぶきたかぶる雪解滝

                           前田普羅

月末に、正津勉著『山水の飄客 前田普羅』(アーツアンドクラフツ)が上梓されました。大正初期に頭角を現してきた虚子門四天王に、村上鬼城、飯田蛇笏、原石鼎、そして、前田普羅がいます。しかし、他の三人が著名なのに比べて普羅の名は知られておらず、また、秀句が多いのにもかかわらず手に入りやすい句集がなく、その句業や生涯についても謎めいたところのある人です。この本は、俳壇において日陰者の境涯に追いやられてきた普羅の生涯に光を当て、また、年代順に取りあげられた句には普羅自身の自解も多くほどこされており、しばしば膝を打ちながら読みました。たとえば、句作に日が浅い29歳(大正1)の作に「面体をつつめど二月役者かな」があって、これなどは自解があってようやく腑に落ちます。「町を宗十郎頭巾をかぶつた男が通る。幾ら頭巾で面体を隠しても、隠せないのは体から滲み出る艶つぽさだ。役者が通る、役者が通る。見つけた人から人に町の人はささやく。暖かさ、艶やかさを押しかくした二月と、人に見られるのを嫌つて面体をつつんだ役者の中に、一脈の通ずるものを見た」と説明されて、ここの舞台は横浜ですが、江戸と文明開化がさほど遠くないご時世をも伝えてくれています。この小粋な中に屈折した句作は、渓谷をめぐり始めることによって「静かに静かに、心ゆくままに、降りかかる大自然に身を打ちつけて得た句があると云ふのみである」(『普羅句集』序・昭和5)と宣言して、山水に全身で入り込む飄客となっていきます。掲句はその中の一つ。「山吹/しぶき/たかぶる」の三つのbu音が、「雪解滝」のgeとdaに連なって、早春の滝のしぶきの冷たい飛沫を轟音の濁音で過剰に描出しつつも、山吹を定点に据えることによって画角がぶれていません。動には静がなければ落ちが着かないということでしょう。掲句を、肌と耳の嘱目ととりました。この本から、普羅は山吹に思い入れのある俳人であることも知り、その佳句は多く、「鷹と鳶闘ひ落ちぬ濃山吹」「山吹の黄葉ひらひら山眠る」「青々と山吹冬を越さんとす」がつづきます。(小笠原高志)


March 0632016

 玉人の座右にひらくつばき哉

                           与謝蕪村

村らしい絵画的な配置の句です。玉人(たますり)は、古代の朝廷に仕えた玉作部(たますりべ)に由来します。縄文時代から作られていた勾玉(まがたま)の素材であるメノウや水晶を細工する職人が玉人です。ところで、掲句は蕪村の王朝趣味というよりも、写実と思われます。江戸時代、蕪村が住んでいた京都では御幸町通・四条坊門に玉人たちが住んでいて、画家であった蕪村は、この立体造形のアーティストたちと交友があり、その仕事ぶりを見学させてもらった時にできた即興の挨拶句なのかもし れません。玉人が硬質な玉を手にして細工している傍らで、椿の花びらが開いています。それは、玉とは対照的なやわらかな質感であり、また、色彩も鮮やかです。玉人の座右にこれを配置したところに、玉人に対する敬意が表れています。椿の美を座右の銘として仕事を続けている姿を表敬しています。『蕪村句集』(1996)所収。(小笠原高志)


March 1332016

 白魚や生けるしるしの身を透かせ

                           鈴木真砂女

生について考えさせられます。見る者が、対象の形態を丁寧に写しとることは写生の必要条件でしょう。しかし、写しとったとしても全てを描写し尽くすわけにはいきません。とりわけ五七五の定型の場合には、どの要素を取捨選択するかによって、対象の存在感が変わってきます。俳句の場合、その要素とは言葉の選び方になるでしょう。掲句では、言葉の選択と、音韻、さらに構成の工夫によって一句を白魚一匹として写生しています。真砂女は、小料理屋「卯波」の調理場で仕込みの最中に、生き ている白魚を凝視して驚きます。その透きとおった小さな細身の中には、骨と管と袋と肝が透けて見えます。なんと正直な存在なんだろう。このあけっぴろげな生き様。潔い。これには自己投影もあるでしょう。ところで、中七を「生きる」ではなく、「生ける」を選んで他動詞としたところに、内臓のはたらきを写実した工夫があります。また、下五では「透かし」よりも「透かせ」の方が音の流れがよく、「白魚/しるし/透かせ」でS音を五つ連ねて徹頭徹尾の白魚一匹を俎上に上げています。俳人は、句を構成するとき、上五と下五を輪郭にして、中七を骨と内臓にした一尾として写生したのでした。『鈴木真砂女全句集』(2001)所収。(小笠原高志)


March 2032016

 春の山夜はむかしの月のなか

                           飯田龍太

句です。難しい言葉がない。けれども、句に立ち止まってしまう。だから、そう思いました。私は、春の夜の山にいざなわれます。そこは、「むかしの月のなか」にあります。たとえば、平安時代の月明かり。春の夜、山は静かです。植物が芽ばる音も聴こえません。虫たちもまだ、じっとしています。この句は、春の月夜の光の中で、山が静かに在ります。月の光が、やわらかく山をつつんでいます。それが、我が身を包んでもらいたいと願うこの身と重なるのは私だけでしょう。ところで、上五が、「夏の山」、「秋の山」なら、蚊や螢、虫の音などの情報が過多で、そこにいる人が、じっくりと月光の中だけに佇むことは難しく、「冬の山」なら寒いうえに冴え渡る月光が鋭く、「むかしの月のなか」という表現が持つ包容力とは違ってきます。春というぼんやりとした季節、いまだ、植物も動物もぼんやりとしている時節は、森羅万象を包み込んで今も昔もかわらない、そんな普遍性を感じます。『今昔』(1981)所収。(小笠原高志)


March 2732016

 今一度花見て逝きねやよ吾妹

                           林 望

書を引きます。「三月二十九日十八時十分、妹さきく永眠。多摩医療センターにて、肺ガン。末期に余枕頭に立ちて大声にさきくの名を呼べば、一瞬、なにか言いたさうにして、目尻より一滴の涙こぼる。その一刹那の後に、命の火消えたり。余の到着三分後のことにて、恰も余を待ち居たりしがごとし。永訣の一語もがな言はまほしかりしにやと、一掬の涙をそそぎぬ。」慟哭の挽歌です。挽歌は、万葉集では相聞・雑歌と並ぶ部立ての一つですが、古語による前書、感動詞の「よ」、そして、万葉集によく見られる吾妹(わぎも)を使うことによって、昔も今もまったく変わらない惜別の情を貫きます。俳句の中にこのような古代性を取り入れられる教養に、学者文人の品を感じます。句集「しのびねしふ」(2015)所収で、はじめに「よのなかはかくぞありけるうきからきいさしのびねになきみわらひみ」から始まって、句は五十音順に四百句が配列されています。若い頃から心の赴くままに、鶯の「しのびね」のように作句してきた集積で、読みごたえがありました。もう一句。前書は、母死す。「白菊や現し世の爪摘み終えぬ」。妹の句とは違って、落ち着いた諦観があります。爪を「摘み」とした言葉の気遣いに、母に対する思慕がやさしく描かれています。「さてこんな凩の日に母逝きし」。妹には詠嘆で、母とは淡々と。では、父はどうかというと、句集には一句のみ。「亡き父に歳暮の林檎届きけり」。息子にとって父親は、不在がふつうということでしょうか。妹と母と父。詠む対象によって、おのずと句のおもむきも違ってきます。(小笠原高志)


April 0342016

 バケツなれば凹みもありし四月馬鹿

                           辻 征夫

つて、バケツはブリキ製でした。教室の隅に汚れたぞうきんとともに置かれていて、一応、掃除の時はぞうきんを絞ったり汚水を運んだりしていましたが、その存在は誰にも顧みられずにひっそりと佇むばかりです。時に、やんちゃ坊主はそれを叩いたり蹴飛ばしたので、学年度末のバケツは凹んだり歪んだりしていました。教室内の備品のヒエラルキーを考えてみても、教卓や黒板、チョーク入れ、定規などは生徒からみて正面に据えられた上部構造に位置するのに対して、掃除道具一式は下部構造といってよく、ブリキのバケツに関しては、小中高の12年間にわたって使用していたにもかかわらず、それを大切に扱いましょうという気持ちをもったことはありません。むしろ、教室内の備品の中でも、バケツはぞうきんと並んで最も蔑まれた存在でした。では、バケツ全般が軽蔑の対象になるのかというとそれは違います。かつて、北海道の冬の教室は、石炭ストーブで暖をとっていましたが、その煙突の下には、真っ赤なペンキを塗られた防火用バケツが水をたっぷりと溜めていて、ある種、厳かな存在感を発揮していました。悪ガキどもも、これを蹴飛ばしてはバチが当たると本能的に察知していました。一方で、ブリキのバケツは相変わらず日々の汚れを受け入れて、色も匂いもドブネズミみたいです。もし、辻さんが自嘲の句として、自分を四月馬鹿のバケツだと思っていたのなら、ブルーハーツのリンダリンダリンダみたいにその心は美しい。『貨物船句集』(2001)所収。(小笠原高志)


April 1042016

 この瀬戸に知盛出でよ春の渦

                           林 望

戸内の海に向かって、平家のもののふを思う。夢幻と消えた残像は、琵琶法師に語り継がれて、悲劇は後世の聞き手にもとどろき及んでいる。四月の壇ノ浦の海で、「見るべきほどのことは見つ」と言って自害した知盛は、春の渦の中に消えたが、今、この最期の場所に立つと、あたかも能のシテのように春の渦の中から立ち現れてきそうである。知盛は、物語の中でも屈強の武将であるが、中でも息子知章が父の身代わりになって討ち死にしたとき、怖さのあまり逃げまどい、泣きわめく場面は、何の虚飾もないもののふの素っ裸な魂が描かれていて、平家物語の中でも最高の名場面と思う。悲劇を語りつなぎ、それを現在でも感受し続けられている僥倖を思う。掲句は、芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」に通じる鎮魂の句です。『しのびねしふ』(2015)所収。(小笠原高志)


April 1742016

 観音の顔あまたなり花吹雪

                           暉峻康隆

者の意図と読み手の鑑賞は、的を射たり外したり。掲句について、まずは外します。様々な観音像が安置されている境内。一様に花吹雪が舞うと、むしろ観音像の表情が一つ一つ異なることに気づきます。散り際にこそ、はっきりと観音像の姿を垣間みることができます。はざまに見る、一瞬の像。これも一つの読み方で、暉峻先生なら、かろうじて、及第点をつけてくれたかどうか。ところで、掲句には前書的な自解があって、「岐阜県谷汲の西国三十三番札所の谷汲寺で、御本尊の十一面観音に奉納した一句」とあるので、掲句は、一体の観音様の顔があまたなりであることが知れました。では、この観音様、どのようなお姿なのか。ふだん、まったく頼りにしていないインターネットで調べてみたところ、秘仏のようで写真も公開されていないようです。(いまさらですが、私は、全くのパソコン音痴なので、調べたり、お返事したり、などなど、ほとんどやりません。いままで、いろいろご教唆していただいたのに、返信していないのは、こういう次第です。かろうじて、増俳を続けられているのは、土肥さんに助けられているからです。ついでに言うと、この原稿も、原稿用紙に書いた文章をメールで送信しています。)すみません。本題に戻ります。一般的に十一面観音とは、それだけの形相を持った像ということはわかり、たぶん、秘仏の顔にも十種くらいの形相があるのでしょう。観音の形相もあまたであり、それと同様に、いやそれ以上に人の形相もあまたです。ただ、十一面観音の形相には、人生の節々の相をかたどる陰影が掘られていて、それは、観る者それぞれの現在の相を映し出す万華鏡の役割を果たすこともあるでしょう。では、花吹雪はいかに。われわれは、花吹雪の散り際を一様に見てきましたが、全体ではなく、ひとひらひとひらを見ていけば、それぞれの散り方は違います。観音様の顔も、花吹雪の散り方も、バラバラ。一様なんてありゃしない、あまたなり。作者は戦時中、帝大の論文を批判したことで、早稲田大学助教授から、陸軍歩兵二等兵として中支派遣軍の一員となった人。その時三十七歳。十把一絡げの国体と真っ向から対峙した結果です。晩年、totoを野次って、「ついに文部省が胴元に成り下がりやがった」。だから、この花吹雪は、あまた、ひとつひとつでしょう。『暉峻康隆の季語辞典』(2002)所載。(小笠原高志)


April 2442016

 交番に肘ついて待つ春ショール

                           北大路翼

月十六日。第124回余白句会の兼題は「交番」でした。初参加の北大路翼さんが、断トツの「天」でした。交番という兼題に対して、出句の多くは外から眺めた風景の一部を描いていましたが、翼さんの句は中に踏み込み、交番内の人間模様を巧みに描写しています。ドラマの一場面のようだ、ちょっとワケありの女性を想像できる、若い頃の桃井かおりみたい、、などなど、選句者のイメージは多様ながらも、その輪郭は共通しています。交番の中という舞台を設定したあとに、「肘ついて待つ」が即妙。待たされている当事者に、アンニュイな時間が流れています。人物を女性と特定せず、動作に春ショールをまとわせて、交番内の様態をとらえた瞬時のクロッキー。肘が、交番の机に接着していることによって、春ショールのたたずまいが定着して、読む者に春のぬるさを伝えています。句会で兼題を出されると、いかにして五七五の中に取り込もうかと発想しがちでしたが、兼題の中に入っていくまっすぐな気持ちを翼さんから学びました。これも実相観入でしょう。(小笠原高志)


May 0152016

 掌になじむ急須や桜餅

                           小寺敬子

本の日常です。しかし、桜餅をいただく儀式のようでもあります。桜餅をおいしくいただくためには、万古焼きの急須で、緑茶の旨味を引き出さなくてはなりません。そう思うと、かつては当たり前だった午後のひとときや来客へのおもてなしが、今では特別の所作になっているように思われます。コーヒーを入れるときも紅茶を入れるときも、ポットの取っ手を握って湯を注ぎます。両方とも高温でこそ香りと味わいが届きます。それに対して緑茶の場合、熱湯も一度茶碗で冷ましてから湯を入れるので 、ゆっくりじっくり茶葉の開きをしばらく待って、急須が掌になじみはじめて茶をいただく頃合いとなります。茶人によれば、お茶はゆっくり入れて、最後の一雫まで出し切ることがおいしいお茶のコツと聞きました。あらためて掲句を読むと、描かれている全てが掌の中に納まっています。句は、ここで完結していながら、これから桜餅の甘みが舌に届いて緑茶の渋みがその甘みを抑制しつつ、また一口、桜餅をいただくうれしさを予感させています。掌の中にあるしあわせ。これは、俳句サイズのしあわせです。そして、たぶん、多くの人が、これくらいの、掌くらいのしあわせを、しあわせというように思います。『花の木』(2002)所収。(小笠原高志)


May 0852016

 夏来たる草刈り鎌で縄を切り

                           池田澄子

が来た、と感じるのはどんな時でしょう。衣替え、クールビズ、電車の中で半袖姿が目立ち初めた時。「冷やし中華始めました」のポスターが貼られ、麦茶で喉を潤す時。クーラーをつけるにはまだ早いけれど、網戸で風を入れる時。今年はいつ、どこのビアガーデンに行こうかと考え始める時。一方、掲句の場合、自らの手で夏の到来を宣言していて強い。上五はふつうに始まりながら、中七以下の言葉遣いは文字通り切れ味が鋭い。語の選び方と組み合わせが抜群です。なかでも「縄」に注目します。この縄は、どんな用途で使われたのか。縛ったのか、束ねたのか、仕切りなのか、巻いたのか。繋いだのか、吊るしたのか。句では、そんな実用性よりも、縄を切ることで季節の円環を一度断ち切って、新しい一季節を迎えようとする象徴として、とらえられます。これから田植えが始まり、やがて、収穫された稲藁は干され、より合わされて縄になります。それを切り、夏を迎える。これはまた、一年かけて稲を使い切ったということにもなるのでしょう。「たましいの話」(2005)所収。(小笠原高志)


May 1552016

 水換ふる金魚をゆるく握りしめ

                           川崎展宏

う四十年くらい前。日本にまだ歌謡曲というジャンルがあり、アイドル歌手が全盛の頃。伊藤咲子が「もっと強く抱きしめてよ」と歌っていました。西城秀樹も激しい恋に声を張り上げていました。一方で、南こうせつは「あなたのやさしさがこわかった」と歌い、中村雅俊が「心の触れ合い」を弾き語り始めて、穏健派の青年たちは、「やさしさと触れ合い」を一つの信条のように、この言葉を使い始めました。げんざい、大学受験生の論文指導を生業にしている私は、医療系の学生が「患者さんと触れ合って、」と作文してくると、過剰なタッチは別の職種だと判断して、「患者さんに接して」と直します。「触れ合う」という言葉は、歌として音符がついているときは成り立つけれど、話されたり書かれたりすると、じつは形骸化された抽象語であることに気づきます。しかし、掲句の「ゆるく握りしめ」は、命に対するほんとうのやさしさです。ゆるくしっかり掌を使えることが、おだやかな心の表れになっています。『夏』(2000)所収。(小笠原高志)


May 2252016

 真清水や薄給の人偉かりし

                           田中裕明

の前の真清水に見入っています。濁りなく、たゆむことなく、少しずつこんこんと透明な清水が湧きあがっている。そこに、地球のささやかな鼓動を見ているのかもしれません。この時、かつて、薄給を生きていた人を思い出しました。それは、父であり、父の時代の人たちです。給料が銀行振込になった1980年代以降も、給料が高い低いという言い方は変わっていませんが(例えば高給取りとか、高給優遇とか、低所得者とか、低賃金など)、一方で、給料袋を手渡されることがなくなったので、その薄さを形容する薄給という言葉は無くなりました。ところで、薄給という言葉には、清貧の思想が重なります。あぶく銭で儲けるのではなく、自分の持ち場を離れず誠実に役割を果たす。しかし、小さな成果だから、労働対価は微々たるもの。けれども、誠実な仕事人は、少ない給料を知恵を使ってやりくりして、無駄のない質素な生活を営みます。ゴミを出さず、部屋の中もすっきり整頓されて、ぜい肉もない。薄給を手にしていた人たちは、それが薄くて軽いぶん、むしろ、手を自由に使えました。針仕事をしたり、日曜大工をしたり、手料理を作ったり。今、真清水を目の前にして、生きものは、清らかな水があれば何とかなる、作者は、そんな思いを持った。『夜の客人』(2005)所収。(小笠原高志)


May 2952016

 不器用は/如何なる罪ぞ/五月闇

                           鵜澤 博

かに怒っています。手先の不器用さにではありません。自分が、あるいは目をかけている人が、人間関係に不器用なんでしょう。相づちを打てない。愛想笑いをしない。納得のいかない意見には同意しない。旧態依然の悪弊には従えない。この、真っ当な心根のどこが罪なのか、と問うています。ところで、五月闇は、梅雨時の夜、月明かりが厚い雲に隠された闇のことです。ここから、昼の闇にも汎用される使われ方もありますが、掲句の場合は心象風景の闇でしょう。かつて、受験勉強で燃え尽きた新入生は、学生生活にすぐにはなじめず、五月病にかかりました。五月闇は、同じ心のやみですが、それとはちょっと違った意味合いがあります。新入社員たちは新人研修を終えて、それぞれの部署に配属されました。そこには独自の社内ルールが適用されていて、一般常識からみれば到底受け入れることのできない掟に縛られていることもあるでしょう。その現実に直面したとき、純粋さは、不器用さとしてもて余されてしまう。21世紀を迎えても、湿潤な気候風土の日本の社会には、五月闇が存在しています。なお、句集の表記は、横書き三行分けです。『イヴ仮説』(2002)所収。(小笠原高志)


June 0562016

 娘を盗りに来し若輩へビール注ぐ

                           加藤喜代人

をもつ日本の父は、おおかたこんな気持ちを抱くのでしょう。この父は、朝から落ち着きません。ふだんは気にもとめない家の中の細かいところや家具の配置など、妙に神経質になっています。かといって、来訪者を歓迎しているわけではありません。なにしろ「盗り」に来るのだから、敵意は十分にあります。しかも「若輩」。闘えば、腕力では分が悪いけれど、積み重ねてきた人間力は遥かに俺の方が上だ。お前は、俺から本気で奪っていく覚悟があるのか。挑まれたら応じよう。ビールは、そんな父親の愚痴になって注がれます。この時、ふと、三十年前、妻の父から注がれたビールの音を思い出しました。あの音は、義父の心の濁流音であったのか、と。句からすこし外れましたが、娘の父も若輩も、ビールの味は苦かったことでしょう。『蘖』(1991)所収。(小笠原高志)


June 1262016

 床拭きて万緑の息通しけり

                           小倉桂子

巾で床を拭く。それは、部屋のお清めです。窓を開け、風を入れる。万緑の息吹が、間を浄化する。今も、このような所作が日々続けられているのなら、素敵な暮らしぶりです。日本人の生活が西洋化されてから久しい年月が経ち、掃除は主に立ち仕事となって、屈んで床を拭く動作はめっきり減りました。私事を言えば、ふだんの床掃除は使い捨てのクイックルワイパーと箒の組み合わせで、床を雑巾がけしたのは今年に入って一回きりです。ただ、この一回が気持ちよかった。膝をつき、腕でごしごし隅々ま できれいにして、雑巾を絞りました。小中学校のときの掃除の時間と、稽古合宿のときの雑巾がけを思い出します。日々の汚れを日々拭きとる。この所作は、日本に住まう所作としてすり込まれた身体の記憶です。世界には、掃除をする習慣がない国もあり、例えば西アフリカのマリでは、日本人のボランティアが掃除という概念とやり方を教えて好評を博しています。日本人は無宗教だと言われますが、むしろふだんは無関心なだけで、掲句のようなお清めの伝統は、無言のうちに生活に根づいています。『告解』(1989)所収。(小笠原高志)


June 1962016

 木にも在る白桃を手に独り行く

                           永田耕衣

桃は、エロティシズムの象徴です。これを手に独り行くとき、その足どりは浮かれているのか、それとも忍び歩きなのか。上五と中七では、白桃が存在している場所が違います。「木にも在る」白桃は、その花が結実して種を内包しています。枝にたわむ果肉は、虫鳥猿に食べられて、ポトリと落ちた種は地中に潜み、やがて新しい命の芽を生むこともあるでしょう。一方、「手に」持たれた白桃は、果肉を人間に食われ、種は、ゴミ収集車に運ばれて処分されます。「私が手にしている白桃は既に死んでいる 」。これを自覚しているゆえ、「独り行く」その歩みは浮かれてはいないようです。句集では、掲句の次に「白桃の肌に入口無く死ねり」があるからです。枝からもぎ取られた白桃は、自然界の循環の輪から切り離された「入口無」き存在でしょう。あらためて掲句を読むと、死を抱えて行くということは、単独な道行きなのだということがわかります。その足どりは、人さまざまでしょうが、浮かれ歩きではなさそうです。『非佛』(1973)所収。(小笠原高志)


June 2662016

 竹夫人背より胸の透けゐたり

                           田島徳子

月十八日。第125回余白句会の兼題は、「竹夫人(ちくふじん)」でした。「絶滅寸前のこの季語の例句を増やそう。」騒々子こと井川博年さんの声かけです。私は、竹夫人の実物を見たことがありません。写真で見ると、竹で編んだ抱き枕のようなもので、1mくらいでしょうか。出題の井川さんは、最近、整体院で見たそうで、そのままの写生句「マッサージ台にごろりと竹夫人」。昨今、冷房が整っているので、寝床から竹夫人は消えましたが、指圧の時には重宝されるようです。ところで、私の家に、うなぎを獲るための竹で編んだ細長いしかけがあります。いつか川に仕掛けて、天然のうなぎをさばいて食おうと数年前から用意しているのですが、いまだ未使用です。これを竹夫人に見立てて一週間ほど抱いて寝ましたが、名句は生まれませんでした。これを句会に持って行ったところ、土肥あき子さんが手にとり、なんだかベタベタする、と言って手を洗いに行きました。無理もありません。失礼致しました。実際の竹夫人にもそんな淫靡な湿っぽさがくっついているのではないかと思うのですが、掲句には、それを払拭する清涼感があります。竹夫人を使用する人と行為よりもまず、竹夫人そのものに即した描写をして、品を出しました。なお、「背」は「せな」と読ませています。句会では多くの讃辞を得て、堂々の「天」。田島さんの俳号は多薪(たまき)でしたが、次回からは稲狸(いなり)になるそうです。(小笠原高志)


July 0372016

 雲の峰暮れつつ高き岩魚釣り

                           飯田龍太

の暮れは遅い。険しい渓谷で、岩魚の食いつきをねばる。雲の峰は刻々と変化して、渓流の流れは速い。さて、この釣り人の釣果はいかに。それよりも、谷あいに居る釣り人が空を仰げば、雲の峰は高い。雲が動き、水流に糸を垂らす僥倖。動中静在。さて、釣り人はぐいぐいと岩魚を高く釣り上げたや否や。以下、蛇足。岩魚は野生味の強い魚で、貪欲に餌に食いつくけれど、針をのみ込んだまま滝を上ろうとしたり、大暴れして逃げ果せることもしばしば。その容貌には、太古を思わせる険しさがある。私 が釣り上げて最も怖かった魚の形相は、北海道知床で釣ったオショロコマというエゾの岩魚。その日、川の畔では熊が鹿を食い、食べ残した残骸を地元の漁師がガソリンをかけて燃やしていた。『山の影』(1985)所収。(小笠原高志)


July 1072016

 ここにここに慶喜の墓梅雨曇

                           戸板康二

書に「谷中」とあります。何人かで墓地を散策、あるいは吟行中。「ここにあった、ここにあった」の声が出て、最後の将軍、徳川慶喜の墓を見つけました。梅雨曇りのおかげで日差しは強くなく、やや湿りがちですが、それほど暑くないお散歩日和のようで座はなごやかです。「ここにここに」の声が出て、一同お墓に気持ちを寄せているからでしょう。そしてもうひとつ、読む者には、ひらがなと漢字を使い分ける効果を伝えています。「ここにここに」というひらがなの表記をくり返すことで、墓地を歩く一行は、句の中に「ここにここに」という足跡を残しています。「こ」で一歩。「ここ」で二歩。俳句だから「ここにここに」で百歩くらい。このひらがなの使い方は、 意味に加えた視覚効果です。下駄の歯形のようにも見えてきます。句集は縦書きなのでもっとそうです。少し迷ってやや回り道をしたので字余りなのかもしれません。そんな想像を読む者に託して、中七以下は、画数の多い漢字表記が中心です。「慶喜」は固有名 詞であるうえに、激動の時代を生きた彼の人生を思うと、ひらがなカタカナでは軽すぎます。「梅雨曇」は、この三文字で空を灰色に覆い尽くす力があります。上五はひらがなで軽くビジュアルに、中七以下は漢字で重厚に。日本語を読めない人は、この文字の配列をどのように見るのでしょう。世界には315種類の文字がある中で、複数の文字を使い分けているのは日本語だけです。使い分けを遊べる文字をもってる楽しさ。『花すこし』(1985)所収。(小笠原高志)


July 1772016

 蛍火や女の道をふみはづし

                           鈴木真砂女

れ字はこのように使うのか。自然界と人間界を截然と切っています。蛍火は求愛。これと同様、作者の恋の本情も天然自然のリビドーです。蛍火に、人倫の道はありません。あるのは闇の自由の三次元。そこでは恋情が蛍光しています。真砂女には蛍の句が多く、手元の季題別全句集には、じつに48句が所収されています。「死なうかと囁かれしは蛍の夜」「蛍火や仏に問ひてみたきこと」「蛍の水と恋の涙は甘しとか」。ところで、真砂女よりはるか昔、和泉式部は「物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る」と詠み、蛍火に、恋する自身のさまよう魂を見ていました。両者は、似た心情のようにも思えますが、和泉式部は蛍と魂がつながっているのに対して、真砂女は蛍をいったん切り離したうえで自己を投影しているように思います。平安時代の和歌と、現代の俳句との違いでもあるのでしょう。さて、クイズです。真砂女が詠んだ季語の第二位は「蛍」ですが、第一位は何でしょうか。正解は、「雪」で67句ありました。蛍も雪も空間を舞い、やがて消えゆく儚い存在です。だから、句にとどめようとしたのかもしれません。「恋に身を焼きしも遠し雪無韻」。過去の熱い日々と雪積もる静かな今。時の経過が身を浄化しているようです。蛍雪の俳人真砂女は、夏に蛍を、冬に雪を詠みました。『季題別 鈴木真砂女全句集』(2010)所収。(小笠原高志)


July 2472016

 夕立を写生している子供かな

                           清水哲男

情があります。子供は、夕立を選んで写生しているのか。それとも、写生をしていたら天気が急変したのか。いずれにしても、子供は夕立を写生し続けています。この時、降る雨つぶはどのように描かれているのでしょう。その目の先には、いつもと違う街の質感があります。雨つぶに打たれている舗道の影はゆらいでいて、樹は濡れて黒く、雨に洗われた葉は鮮明です。いつもの街が、初めての街に見えてくる。絵筆を握っていた手は、いつしか情景を前にして止まっています。同じ色はなく、同じ形はなく、同じくり返しはない。夕立は、子供を急速に成長させている。もしかしたら、これは、うつろいつづける自然と事象を肉眼で受けとめてきた清水さんの自画像なのかもしれません。『打つや太鼓』(2003)所収。(小笠原高志)


July 3172016

 雲湧いて夏を引っ張る左腕なり

                           清水哲男

緑色の球場の向こうには、入道雲が湧いている。真夏の甲子園。エースの左腕は、予選から数えれば10試合以上、投球数は1000球を超えて夏のチームを引っ張ってきた。そればかりではない。地元からは、何十台ものバスを連ねた応援団を呼び寄せ、高校野球ファンたちを球場に誘い込み、全国津々浦々の食堂・床屋・お茶の間のTVの前に人々を釘付けにし、スポーツ紙の売り上げを伸ばしている。酒場では男たちが、金田正一・鈴木啓示・江夏豊・工藤公康といった往年の左腕を語り、「山本昌は甲子園に出られへんかったから肩を消耗せずに50歳まで投げられたんや」とか、「それに引きかえ近藤真一は甲子園で投げ過ぎて入団の時には肘の反りがなかったんやで」とか、「それ 考えると工藤はええ野球人生やな」など、野球になると口数が多くなる男たちの夏の話題も引っ張る左腕。今年の甲子園では、そんな左腕が現れるだろうか。ところで、野球は左利きに有利なスポーツだ。バッターなら、右利きより一歩分一塁ベースに近い。イチローが右打者だったら、大リーグ3000本安打は無理だっただろう。足で稼いだ安打が多いですから。では、投手はどうだろうか。詳しいところはわからない。右も左も投球の質そのものに違いはないだろう。ただし、打撃有利な左打者に対する左腕は、球の出所が見えにくいのは周知の通り。そう考えると、左腕はやはり有利であるようだ。そんなことよりも、事はもっと単純で、左腕はかっこいいのである。私が少年野球をやっていた時、チームは全員右利きだった。左腕は、TVでしか見られない憧れだったのだ。さて、もう一度、掲句を読んでみて下さい。この五七五は、「振りかぶって、第一球を、投げました」のリズムに重なります。『打つや太鼓』(2003)所収。(小笠原高志)


August 0782016

 さようなら秋雲浮かべ麹町

                           清水哲男

日、立秋です。秋の始まるこの日、日曜の増俳もさようならとなりました。長い間、拙文をお読み頂き、ありがとうございました。さて、先週日曜の午後、清水さんにお電話しました。「この句は、麹町にあるFM東京のパーソナリティーをお辞めになった時の句ですか」「そうそう」「何年の何月ですか」「忘れたなあ」「1980年の半ばくらいまででしたよね」「うん」「何年続けられたんですか」「12年半」「朝の9時頃までの放送だったと思いますが、スタートは何時からでしたか」「7時から9時まで」「その頃は相当な早起きですよね」「4時に起きていた」「始発で出勤ですか」「家の近くはバスも通っていないんで、タクシーと契約してたんだ」「その頃は就寝も早かったでしょうね」「うん。9時とかね」「私は、坂本冬美さんがゲストだった放送のことをよく覚えているんですが」「坂本冬美は、アマチュアのコンクールに出ていた時から注目してたんだ。それに優勝して、まだ、新人の頃だね」「他に印象に残っているゲストはいますか」「うーん、、、マスゾエさんかなぁ。新進気鋭の国際政治学者で切れ味がよかったね」「あの時代としてはかなり右寄りの発言を堂々と喋っていましたね」「そうそう。政治のコメンテーターとして、番組のレギュラーだったんだ」「ところで、ラジオのパーソナリティーになられたきっかけは何だったんですか」「ラジオに原稿を書いていたんだけど、ディレクターから、書くより喋る方が手っ取り早いからやってみないかって言われてね」「では、この句に解説を加えるとすればいかがでしょう」「そのまま。自分のために作った句だよ」「もう一句教えて下さい。私の好きな句に〈ラーメンに星降る夜の高円寺〉があって、何人かでこの句を話題にした時、この句は秋か冬の句だろうねということに落ち着いたのですが、句集の配列では〈さらば夏の光よ男匙洗う〉の次にあるので、夏の句かなとも思うんですがいかがですか」「忘れた」「無季ということでいいですか」「うん。」「それでは最後に、今年の阪神タイガースについてどう思われますか」「過渡期だね。いろいろ動かしているんじゃないかな」「たしかに全球団の中で一番選手の入れ替えが激しいですよね」「金本がフロントから言われてるんじゃないの?」「昔のストーブリーグのフロントとは大違いですね」「フロントも若くなったんじゃないの?何年後かを見据えた長期の展望を持つようになったんじゃないかな」。学生時代、ラジオから聞いていた声を受話器で聞けたしあわせな通話でした。以下、恐縮ですが私事のお知らせをお許しください。10月15日(土)から11月18日(金)まで、ユジク阿佐ヶ谷という小さな映画館で、『映像歳時記 鳥居をくぐり抜けて風』(池田将監督)を公開します。私の企画・脚本・プロデュースです。増俳を執筆しているうちに、観る歳時記を作りたくなり、三年かけて完成しました。イギリス生まれの少女が、熊野に住んでいる祖父と神社を旅する映画で、南方熊楠が、鎮守の杜の中で見つけた粘菌類のはたらきについて考えています。映画を観た後に、俳句を投句してもらおうと思っています。それらをHPに掲載させていただきます。また、映画館内吟行句会も計画しています。映画を観て、俳句を作る。ユジク阿佐ヶ谷の館長には、30年間上映させてほしいとお願いしましたが、とりあえずひと月という事になっています。みなさんが、銭湯に通うようにこの映画にひたっていただければ、長期上映となり、ユジク阿佐ヶ谷を俳句仲間のサロンにすることも可能になります。これに関しては、館長さんの了承を得ていますので、どうかみなさん、お越しください。詳しくは、『映像歳時記 鳥居をくぐり抜けて風』をご覧下さい。最後に、俳句を読み、文章を書く機会を与えてくださった清水哲男さんに感謝申し上げます。さようなら。『匙洗う人』(1991)所収。(小笠原高志)




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